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日本の都道府県としての奈良県について説明しています。奈良県の行政機関については「奈良県庁」をご覧ください。 |
国
日本地方近畿地方団体コード29000-9ISO 3166-2:JPJP-29面積3,690.94km2総人口1,264,501人(推計人口、2026年9月1日)人口密度343人/km2隣接都道府県 三重県山下真法人番号1000020290009
所在地〒630-8501
ならけん
奈良県 |
| 東大寺金堂(大仏殿) |
| 法隆寺金堂・五重塔 |
平城宮跡大極殿 |
| 三輪山 |
郡山城 |
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| 奈良県旗 |
奈良県章 |
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京都府
大阪府
和歌山県 |
| 県の木 |
スギ |
| 県の花 |
ナラヤエザクラ |
| 県の鳥 |
コマドリ |
| 他のシンボル |
県のさかな:キンギョ、アユ、アマゴ
県の歌:奈良県民の歌 |
| 奈良県庁 |
| 知事 |
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奈良県奈良市登大路町30
北緯34度41分07秒 東経135度49分59秒座標: 北緯34度41分07秒 東経135度49分59秒
奈良県庁 庁舎
Wikimedia | © OpenStreetMap 県庁舎位置
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日本の都道府県/奈良県 |
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奈良県(ならけん)は、日本の近畿地方に位置する県。県庁所在地は奈良市。
紀伊半島内陸部にあり、令制国の大和国の領域を占め、北西部の盆地部を除けば険しい山々がそびえており、人口の偏りが大きい。都道府県面積は全国で8番目に狭く、内陸8県では最も狭い。
地理・地域
概要
紀伊半島中央の内陸部に位置し、中央構造線によって南北に大別される。北部は奈良盆地や大和高原といったなだらかな地形が広がる一方、南部は大台ケ原や近畿地方最高峰の八経ヶ岳(八剣山)といった紀伊山地の急峻な地形で占められる。
南北2区分のほかに、北和、中和、西和、宇陀(東和)、吉野(南和)の5区分もあるが境界は曖昧なものとなっている。
- 盆地:奈良盆地
- 山地:紀伊山地・高見山地・室生火山群・竜門山地・金剛山地・生駒山地・笠置山地
- 高原:大和高原(笠置山地)
- 川:大和川・吉野川・十津川
- 山:八経ヶ岳・弥山・釈迦ヶ岳・大普賢岳・山上ヶ岳・稲村ヶ岳・大台ヶ原山・高見山・金剛山・大和葛城山・二上山・生駒山・若草山
- 奈良盆地
- 奈良盆地は、奈良県の中央から北西側に位置する。大阪との距離が近いこともあり、住宅開発が進んだ結果、大阪市や京都市のベッドタウンとなっており、県民の8分の1が大阪市や京都市など県外へ通勤・通学している(奈良府民)。また、盆地外周の丘陵地(平城山丘陵・西ノ京丘陵・矢田丘陵・馬見丘陵)ではニュータウンも開発された。
- 大和高原・宇陀
- 大和高原は、奈良盆地の東に位置する。名阪国道沿いの奈良市都祁地区や山添村では、工業団地が見られる。宇陀地域は、大和高原の南に位置する。南西部は盆地となっており、宇陀市中心部の近鉄大阪線榛原駅を中心にベッドタウン化も見られる。基本的に、奈良盆地と比べても自然が多く、奈良市の月ヶ瀬梅林や曽爾村の曽爾高原といったのどかな風景が広がっている。
- 吉野
- 吉野地域は、奈良県の3分の2近くの面積(神奈川県や佐賀県に匹敵)を占める森林地帯である。範囲は吉野郡と同じ、もしくは五條市を加えたものである。吉野地域で特に知られるのは、吉野町の千本桜で、春には多くの観光客が訪れる。また、世界遺産の大峯奥駈道・熊野古道(小辺路)もあり、山岳信仰の霊地として古くから多くの信仰を集めている。大淀町など郡北部の一部の地域では、近鉄吉野線沿線であることや比較的可住地が多いことから、県北部と同様に大阪市や京都市のベッドタウンとしてニュータウンが開発されている。その一方で、上北山村や野迫川村などほとんどの地域は険峻な山地であり可住地面積が少なく、また道路施策の遅れから交通の便も悪いため、人口は多くの村で1,000人前後と少なく過疎状態であり財政再生団体化が進んでいる。
気候
奈良県各地の平年値(統計期間:1971年 – 2000年、出典:気象庁・気象統計情報)
| 平年値 |
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(月単位) |
北西部 |
北東部 |
五條、北部吉野 |
南東部 |
南西部 |
| 奈良 |
奈良市 針 |
田原本 |
宇陀市 大宇陀 |
吉野 |
曽爾 |
上北山 |
十津川村 風屋 |
平均 気温 (℃) |
最暖月 |
26.6 (8月) |
23.6 (8月) |
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24.6 (8月) |
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23.9 (8月) |
24.4 (8月) |
| 最寒月 |
3.8 (1月) |
0.9 (1月) |
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1.9 (1月) |
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2.6 (1月) |
4.6 (1月) |
降水量 (mm) |
最多月 |
208.5 (6月) |
239.5 (6月) |
194.3 (6月) |
219.9 (6月) |
216.8 (6月) |
274.0 (9月) |
446.6 (9月) |
344.1 (7月) |
| 最少月 |
40.7 (12月) |
46.1 (12月) |
37.1 (12月) |
48.7 (12月) |
53.1 (12月) |
46.4 (12月) |
59.4 (12月) |
58.5 (12月) |
奈良における年平均気温は15.7°Cである。降水量は年間を通じて1365.1mmと比較的少なく、奈良盆地(奈良市・橿原市などの地域)では冬型の気圧配置が強い時や、南岸低気圧が紀伊半島沖を通過した時に雪雲が流れ込むことがあり、積雪することもあるが、全体的にみると降雪量は多くない(年平均5cm)。10cm以上の積雪となる時は殆どが南岸低気圧の通過によるものである。一方、五條地域・吉野地域・宇陀地域などは降雪・積雪に見舞われることがあり、天川村・上北山村にはスキー場も存在する(大阪市から津市以南の近畿では両村だけ)。これらの地域では積雪が交通に影響を与えており、奈良県の道路政策には「雪害対策」の文言が含まれている。また温帯である。
気象は一般的に瀬戸内海式気候に属する北部(基準地は奈良市)と太平洋側気候に属する南部(基準地は吉野郡十津川村風屋)に大別される。天気予報では北部と南部に分けて発表される。
さらに北部を北西部(基準地は奈良市で狭義の奈良盆地の地域)、北東部(基準地は宇陀市で、山辺郡・宇陀市)、五條・北部吉野(基準地は五條市で、旧大塔村の地域を除く五條市域と、吉野郡3町)と二次細分区分として3分割している。
南部は南東部(基準地は吉野郡上北山で、宇陀郡・吉野郡の大峯山系東側の地域)と南西部(基準地は十津川村風屋、五條市のうち旧大塔村の地域・十津川村・野迫川村)と2分割している。
台風の大きな被害を受けることは稀であるが、1912年(大正元年)の暴風雨で死者93人、1959年(昭和34年)の台風15号(伊勢湾台風)では風水害により死者行方不明者113名を出し、1998年(平成10年)の台風7号では室生寺五重塔など文化財が大きな損壊を受けるなど、台風が紀伊半島を北上する場合には地形の影響から大きな被害が出る。
吉野地区は年間を通して雨が多い、日本でも有数の多雨地帯であると同時に台風銀座でもある。台風が接近、通過する時は勿論だが、台風本体が東シナ海を通り、日本海に抜ける時や九州または四国に上陸し、中国地方を縦断する時にも暖かく湿った南東の風が紀伊山地にぶつかり、南東斜面を中心に大雨になりやすく被害をもたらすことがある。その典型例として、1889年(明治22年)8月に起きた十津川大水害と2011年(平成23年)の台風12号がある。特に、2011年(平成23年)の台風12号では上北山村の72時間降水量が国内の観測史上最大となる1652.5mmもの雨が降り、紀伊半島に甚大な被害をもたらしたことから「平成23年紀伊半島豪雨」または「紀伊半島大水害」と呼ばれている。
歴史
先史
奈良県でも約2万5千年前(炭素14年代測定法による)には旧石器時代の人々が生活を始めた。県西部の二上山一帯は石器石材となるサヌカイトの産出地で、二上山北麓遺跡群には60か所以上の旧石器の遺跡が分布しており、ナイフ形石器・石核・剥片などの遺物が出土している。
縄文時代には木津川・吉野川水系の諸河川が流れる大和高原や吉野山一体を中心に遺跡が分布している。近畿地方では縄文草創期の遺跡は少ないが、県下最古の縄文遺跡は山添村中峯山(ちゅうむざん)の大川(おおこ)遺跡があり、県北部の布目川流域では、山添村の桐山和田遺跡や北野ウチカタビロ遺跡から草創期の隆起線文土器が出土している。また遅瀬川流域の山添村上津の上津大片刈遺跡からも草創期の爪文形土器が出土している。
吉野川流域には大淀町の桜ヶ丘遺跡で、縄文前期・中期の竪穴建物跡や炉跡などが検出されている。川上村迫の丹生川上神社上社の旧境内地には縄文早期から後期前期にかけての大遺跡宮ノ平遺跡があるほか、吉野町には縄文後期から弥生中期にかけての宮滝遺跡が所在する。宇陀地域では、縄文後期の本郷大田下遺跡(宇陀市大宇陀本郷)からはドングリの貯蔵穴(径・深さとも約1メートル)が45基発見された。
奈良盆地では布留遺跡、狐井遺跡など縄文早期からの遺跡が分布しているが、縄文中期の遺物は乏しい。縄文後期には遺跡数が増加し、布留遺跡では縄文後期の遺構に伴い硬玉製大珠も出土している。縄文晩期には橿原遺跡、竹内遺跡などがあり、畝傍山東麓の橿原遺跡からは魚骨類も出土しており、大阪湾岸地域との交易が想定されている。
弥生時代には奈良盆地を中心に集落遺跡が分布し、特に初瀬川左岸の唐古・鍵遺跡は弥生前期からの継続した大規模集落として知られる。唐古・鍵遺跡からは水田農耕の存在を示す水田遺構や環濠、木製農具をはじめ炭化米、高床式建物跡などの遺構が見られ、青銅器生産を示す鋳型も出土している。また、唐古・鍵遺跡の周辺にも分村的な多数の集落遺跡が分布している。
弥生後期には盆地周辺や宇陀地域において高地性集落が出現する。
古墳時代・飛鳥時代・奈良時代
紀元3世紀から4世紀ごろの古墳時代前期に、畿内の豪族が力を強めて周辺地域に覇を唱えた。その後長い年月と代替わりを経て、他地域との交流・攻防や大陸との交流の末、現在の日本地域の大半を支配する大勢力となった。これがヤマト王権と呼ばれる。
ヤマト王権は現在の皇室の祖であるとされ、宮内庁比定の天皇陵などが集まっている。大化の改新前代に置かれていた宮廷直轄領である六御県(むつのみあがた)は、倭六県(やまとのむつのあがた)ともいい、天皇に献上するための蔬菜を栽培する菜園の霊を祀り、添(そふ)・山辺(やまのべ)・磯城(しき)・十市(といち)・高市(たけち)・葛城(かつらぎ)の6つの県(あがた)は特別視された。県内には、御県神社が式内大社として存在している。
3世紀の半ば過ぎから九州地方から渡ってきた豪族などの邪馬台国連合・ヤマト政権の盟主墳と考えられる古墳が累々と奈良盆地に築造されている。それらを列挙すると、東南部の外山古墳群、纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群であり、墳丘長200メートルを超す巨大古墳が6基も存在する。これらの古墳群をまとめて大倭古墳群と呼称することもある。曾布地域の佐紀丘陵には佐紀盾列古墳群、馬見丘陵周辺には馬見古墳群が所在する。
古代からの神道信仰の伝統、および6世紀の仏教伝来以来の国策により、この地域には神社仏閣が多数存在する。蘇我馬子が創立した飛鳥寺や、聖徳太子が創立した法隆寺などが知られる。
ヤマト王権成立以来8世紀末まで、この地域に大和朝廷の累代の天皇の宮があり、都が置かれた。大和時代から飛鳥時代にかけては、桜井市、橿原市、高市郡に宮が置かれていることが多かった(飛鳥京跡)。特に藤原京は、持統天皇4年(690年)に着工され、持統天皇8年(694年)に完成した条坊制による中国風都城として知られる。その後、和銅3年(710年)に平城京遷都が行われた(奈良時代の始まり)。
平城京では遣唐使を通して唐など諸外国との文化交流が行われた。諸外国から輸入した宝物を一同に保管している正倉院は、事実上のシルクロードの終着点である。また、聖武天皇の鎮護国家政策により、興福寺など仏教勢力が力を強め、天平勝宝4年(752年)には東大寺で大仏開眼会が行われた。
平城京から長岡京への遷都の一因ともなった影響力を持った寺社勢力は、遷都後もそれらはこの地域に残り、その後地域の耕作者を支配下において大きな勢力となった。
平安時代から中世
平安時代後期は、清和源氏の源満仲の次男の源頼親(兄・源頼光/摂津源氏。弟・源頼信/河内源氏)の大和源氏の本拠地となった。なお、中近世の日本において大きな歴史的事件の舞台とはなっていないが、温暖で肥沃な盆地を抱える地域であるため、この地域の豪族はいずれも大きな力を持った。
一方、南部の険峻な山地には、その地の利を活かして反中央勢力(中でも反主流派の皇族)が居を定め、中央政府(京都の朝廷、および幕府)とにらみ合う時代が長く続いた。南北朝時代の後醍醐天皇の吉野朝廷(南朝)が有名である。吉野朝廷は地の利を生かしながら、また各地の武家勢力を糾合しながら60年にわたって抵抗し続けるが1392年に南北朝合一。しかしその後も活動を止めず、応仁の乱では山名持豊の推戴も受けた。
奈良時代に建立された藤原氏氏寺の興福寺・東大寺など南都寺院が大きな勢力を誇った。このため、鎌倉・室町の武家政権は大和に定まった守護を置けなかった。平氏が東大寺焼討ちなどを行って南都を制圧しようと試みたが、うまくいかなかった。
戦国時代には筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏などが北大和地域に割拠し争ったが強力な支配勢力となりえず、細川氏や畠山氏・三好氏の後援を受けた赤沢朝経や木沢長政・松永久秀といった他国勢力の支配を受けた。16世紀末に戌亥脇党の筒井順慶が織田信長の力を背景に大和を概ね制する。また、一向宗の布教拠点として今井町が環濠城塞都市化して信長軍と闘ったが、武装放棄されたものの検断権を許され商工業を盛んにし自治都市として発展した。
近世
豊臣秀吉の時代、順慶亡き後筒井氏は伊賀国に転出し、代わって郡山城に大納言豊臣秀長が拠を構え、地域の再編と産業奨励に乗り出し大和は安定した。
江戸時代は奈良(奈良奉行)・五條(五條代官)・今井(惣年寄)を幕府が直轄支配し、郡山藩が15万石で最大石高(但し、津藩も山辺郡などに領有しており、津藩を含めた場合は津藩が最大石高)で、高取藩が2万5千石、丹羽国柏原へ移封したが元禄8年(1695年)まで宇陀市大宇陀に所在した松山藩が2万8千石で、小泉藩・柳生藩・柳本藩・芝村藩・櫛羅藩などは陣屋であった。また、交代寄合の平野家の田原本陣屋があった。
このうち大和南部の広大な山域は、五條代官所管轄の天領(幕府直轄地)となった。実質はあまりに広域のため十津川村の十津川郷士などをはじめ各地域(郷村)による自治を行った。また、あまり知られていないことであるが、五條代官の支配地・管轄はかなり広域で現在の和歌山県の一部も含んでいた。
明治維新以後
慶応4年/明治元年1月21日(1868年2月14日)、新政府は添上郡奈良に大和鎮台を設置。大和鎮撫総督府を経て、同年5月19日(7月8日)に奈良県(第1次)、7月29日(9月15日)に奈良府となり、大和国一円の幕府領、旗本領、寺社領を管轄した。明治2年7月17日(1869年8月24日)奈良県に改称。同年に十津川郷を兵部省軍務官に(のち五條県に編入)、明治3年(1870年)に宇智郡・吉野郡および葛上郡・宇陀郡の一部を五條県にそれぞれ移管している。五條県分離当時の奈良県の管轄地域は、添上郡68村、添下郡8村、平群郡61村、広瀬郡12村、葛下郡34村、葛上郡31村、忍海郡8村、宇陀郡89村、式上郡21村、式下郡26村、十市郡38村、高市郡41村、山辺郡55村(いずれも郡域の一部)であった。
明治4年11月22日(1872年1月2日)に大和国10県が統合され、改めて奈良県が設置された(第1次府県統合)。ところが、この奈良県は1876年(明治9年)4月18日に堺県に編入されて廃止となった(第2次府県統合)。その堺県も1881年(明治14年)2月7日に大阪府に編入されて廃止となったが、この年の12月には今村勤三ら大和出身の大阪府会議員を中心に奈良県再設置運動が開始された。そして、1887年(明治20年)11月4日に奈良県(第2次)が再設置され、11年半におよぶ堺県・大阪府時代が終わった。奈良県(第2次)の初代県知事には奈良県廃止時の堺県令だった税所篤が就いた。
1892年(明治25年)には湊町(現・JR難波駅) – 奈良間の鉄道開業で大阪と奈良が、1896年(明治29年)には奈良鉄道が木津 – 奈良間を開業することにより京都と奈良が結ばれたことで、神社仏閣の多い奈良県が観光地として栄えていくこととなる。さらに、1914年(大正3年)4月、大阪電気軌道(大軌、近畿日本鉄道の前身)が、大阪の上本町駅(現・大阪上本町駅) – 奈良駅間30.8km(現・近鉄奈良線)開業をさせ、より大阪と奈良の交通アクセスが良くなった。一方、当時日本で2番目に長いトンネルであった生駒トンネルの開通は難工事であり、開通後に大軌は深刻な経営危機に陥った。同社にとって幸いなことに旅客利用は順調で、1916年(大正5年)3月に債務整理を完了、やがて積極的な路線網の拡大に舵を切った。
その後、大軌は橿原神宮への参詣輸送を取り込むため1923年(大正12年)には畝傍線(現・近鉄橿原線)を全線開通、1925年(大正14年)には大阪からの短絡線である八木線(現・近鉄大阪線の八木西口駅以西区間)を開通させ、多くの観光客が同神宮を訪れることとなった。同じころ、大阪進出を果たした大阪鉄道 (2代目)(現・近鉄南大阪線)が橿原神宮を目指して路線を延長中であり、1929年(昭和4年)に久米寺駅(現・橿原神宮前駅)に到達、1928年(昭和3年)に吉野まで全線開通したばかりの吉野鉄道(現・近鉄吉野線)との直通運転を開始した。1940年(昭和15年)に官民一体で行われた紀元2600年祭には、両線や省線を利用して、神武天皇とゆかりの深い橿原神宮に多くの参拝者が訪れた。
1950年(昭和25年)7月、近鉄の手による宅地開発の開始を皮切りに、奈良市の学園前周辺が高級住宅地として開発が進んだことで、北和地域の大阪のベッドタウンとしての発展の礎が築かれた。高度経済成長期の昭和30年(1955年)から昭和48年(1973年)には近鉄奈良線沿線や近鉄大阪線沿線、近鉄南大阪線沿線では住宅地開発が進み、奈良盆地全域で急激な都市化が進行した。昭和末期から平成初期には、バブル景気により大阪都心部の地価上昇の影響を受け、県内でも地価上昇が進んだ結果、奈良盆地以外の宇陀市や大淀町、五條市でも住宅地開発が見られるようになり、県内の人口は増加していき、ドーナツ化現象の影響を大きく受けた。2000年(平成12年)以降は、都心回帰に影響もあって、人口は減少に転じているが、生駒市や香芝市、葛城市また県庁所在地である奈良市など、大阪から近いエリアでは開発が進んでいる。そのため、県外就業率が29.98%と埼玉県(2位)や千葉県(3位)を抑えて日本一高く(2005年国勢調査)、昼夜間の人口差が大きい。
また1987年(昭和62年)には、関西文化学術研究都市の発足に伴い、生駒市と奈良市が同都市の対象地域に含まれるようになる。平城・相楽ニュータウンの開発や、奈良先端科学技術大学院大学の設置や平城宮跡の復元など学術研究の分野でも、発展することとなった。さらに、東大寺学園や西大和学園など国内でも有数の難関私立進学校があるなど、文教地域としても知られるようになった。他に、1000世帯あたりのピアノの所有台数が日本一多い(1999年、359台)という統計などから、教養や教育に力を注いでいる家庭が多いのも奈良県の特徴である。
観光地としての面でも、平成初期の1993年に法隆寺地域の仏教建造物が、1998年には古都奈良の文化財が世界遺産となり、21世紀になってからの2004年には紀伊山地の霊場と参詣道が、ユネスコの世界遺産に登録され、今日では、古都と言えば奈良と京都と言われる程知名度が高く、世界的に有名な日本の観光都市として栄えている。現在、県内4箇所目の世界遺産登録(2024年度目標)に向け、県・橿原市・明日香村が活動を行っている。
奈良県ではやまと21世紀ビジョンを作成し「世界に光る奈良県づくり」「関西のオアシス」を目指している。また、古代より多くの都城が置かれたことから「日本の故郷」とされる。
2010年は平城京に遷都されてから1300年目に当たり、平城遷都1300年記念事業が企画され、2005年5月に同事業協会が設立された。また、同事業の主たる企画として、2010年の年初から年末まで「平城遷都1300年祭」が、平城宮跡を主会場(同年4月24日から11月7日)として実施された。
2022年7月8日には、奈良市の大和西大寺駅前が安倍晋三銃撃事件の舞台となった。